何といわれても

 何といわれても、播磨はこの伯母が苦手であった。所詮頭はあがらぬものと諦《あきら》めているらしく彼は伯母の前におとなしく降伏していると、真弓の裲襠姿はやがて再び乗物に隠されて、生肝でも取られたようにぼんやりしている奴どもを後に、麹町の方へしずかにその乗物を舁《かか》せて行った。
 そのうしろ影を見送って、今までうずくまっていた主人と奴とはほっとしたように顔を見合せた。そうして、一度に大きく笑い出した。

「お腰元の菊《きく》の母でござります。娘にお逢《あ》わせ下さりませ」
 やがて三十七、八であろうが年の割に老けて見えるらしい女が、番町の青山播磨の屋敷の台所口に立って、つつましやかに案内を求めると、下女のお仙《せん》が奥から出た。
「おお、お菊さんの母御か。ようお出《い》でなされた」
 お仙がお菊を呼んで来る間、お菊の母は台所の框《かまち》に腰をおろして待っていた。七百石といえば歴々の屋敷であるが、主人の播磨は年が若い、しかもまだ独身である。一家の取締をするのは用人の柴田十太夫《しばたじゅうだゆう》たった一人で、彼は譜代の忠義者ではあるが、これも独身の老人で元来が無頓着《むとんじゃく》の方である。そのほかには鉄之丞《てつのじょう》、弥五郎《やごろう》という二人の若党と、かの権次、権六という二人の奴と門番の与次兵衛《よじべえ》と、上下あわせて七人の男世帯で、鬼のような若党や奴どもが寄り集って三度の飯も炊く、拭き掃除もする。これが三河風《みかわふう》でござると、彼等はむしろその殺風景を誇りとしていたが、かの渋川の伯母御から注意をあたえられた。いかに質素が三河以来の御家風とは申しながら、いず方の屋敷にもそれ相当の格式がある。殊にかような太平の御代《みよ》となっては、いつもいつも陣中のような暮しもなるまい。荒くれ立った男共ばかりでは、屋敷内の掃除も手が廻らぬばかりか客来の折柄などにも不便である。これほどの屋敷をもっている以上、少なくとも然るべき女子供の二三人は召仕《めしつか》わなければなるまいというのであった。自動車保険 Mein phpBB Forum :: 1. Forum
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